近代の柿右衛門 柿右衛門窯は、明治維新を迎え窯業自由化の新時代に至りました。 十一代柿右衛門は、江戸後期以降低迷を続けていた柿右衛門窯を再び蘇らせたいという強い意志を持って窯業に携わるようになりました。 特に戦前、戦中に多くの作品を残した十二代柿右衛門は、困難な世相の中にあっても有田の高級色絵磁器に情熱を抱き、苦労をいとわず窯芸に没頭しました。やがて十二代柿右衛門は輸出最盛期の濁手作品の素晴らしさに魅せられ、その再興を志すようになります。 昭和28年(1953年)、ついに十二代、十三代親子の長年の苦労が実を結び、復活した近代柿右衛門濁手の作品が発表されました。そしてこの功績が高い評価を得て、重要無形文化財の総合指定を受けました。 今日、新しい濁手の技術は十四代に引き継がれ、さらなる発展を続けています。 柿右衛門の名を世に広めるきっかけとなったのが、大正元年、片岡仁左衛門による「名工柿右衛門」の歌舞伎初演と、大正11年、国定小学教科書の「陶工柿右衛門」掲載でした。
十一代柿右衛門 (1845−1917) 江戸時代から継承された華麗な柿右衛門様式の奥行きと、伝統を強く感じさせる華麗な錦手の作風に特徴があり、染付作品も見られます。 近代柿右衛門の染錦様式の基礎を作り出した人物です。 ほとんどの作品に染付にて在銘(角福)です。 十二代柿右衛門 (1878−1963) 近代柿右衛門の染錦様式を完成させ、濁手の復元に心血を注いだ人物です。 昭和28年には念願の濁手を完成させ、昭和30年には「柿右衛門」の製陶技術が国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選ばれました。十二代が直接、制作に携わりました。 十三代柿右衛門 (1906−1982) 完成された濁手作品は、美しい乳白色の釉薬に大胆な構図の色絵を配して独自の様式を示しています。 昭和46年、十三代を代表とする技術保存会が重要無形文化財の総合指定を受けています。 濁手作品は無銘。錦手作品は染付にて「柿右衛門作」と在銘です。 十四代柿右衛門 (1934− ) 細やかな筆使いを濁手作品に絶妙に調和させた作風は、新しい独自の様式を世に示しています。 十三代と同様に草花文様を得意とし、絵画的な表現が評価されています。 濁手作品は無銘。染錦作品は染付にて「柿右衛門」と在銘です。
近代の今右衛門 今泉家は鍋島藩窯専属の赤絵屋(絵付工房)として、世に名高い色鍋島の絵付けを担当していた家系でした。 江戸時代中頃に全盛期を迎え、高い名声を得た鍋島藩窯のやきものも、後期以降は藩の勢力と同様に衰退の道を辿ることになりました。明治維新の窯業の自由化を機会に、かつての鍋島全盛の作風を取り戻そうと作陶を始めたのが十代今右衛門でした。 十代は窮境にも屈せずに、資金のやりくりがつくと窯を焼き、十一代はさらに厳しい経済状態の中で、注文取りに回るなどの苦労をいとわずに窯焼きを続けました。 このような親子の苦労はやがて実り、色鍋島再興の悲願は達成され、十二代に重要無形文化財の総合指定、さらに十三代の個人指定といった輝かしい完成期を迎えるのです。
十代今右衛門 (1847−1927) 色鍋島や古伊万里の再現を志し、逸品の数々を見事に焼成しました。 それまでの赤絵技術に留まらず、自らの手で登り窯を築き、上手の素地を焼き上げた実績は、その後の今右衛門家の運命を決定づけたと言えます。 ほとんどの作品は無銘です。 十一代今右衛門 (1873−1948) ひたむきな職人気質の持ち主と言われ、絵筆をとれば妙技を振るいました。 古伊万里の献上手様式や鍋島藩窯作品を高い次元で再現することに成功した名工です。 宮内庁御用達の看板を許されたのも十一代の輝かしい実績のひとつです。 十二代今右衛門 (1897−1975) 鍋島様式を独自の感覚で壷・花生などに再現した緻密な作品は、感性の鋭さと、それを支える技術の高さを感じさせます。 さらに更紗文や地文様にも力を注ぎました。 昭和46年に「色鍋島技術保存会」(代表:十二代)が重要無形文化財の総合指定を受けました。 十三代今右衛門 (1926−2001) 鍋島藩窯スタイルを基本にして、十三代の独創的な吹墨・薄墨・吹重と新しい技術を駆使した作品を次々と世に送り出しています。 重要無形文化財の総合指定に加えて、平成元年には個人指定を受けています。 彫銘を芸術作品に、染付銘を量産作品に入れることにより、明確に区別された性格の作品を作り出すことで、時代の要望にも丁寧に答えています。 十四代今右衛門 (1962− ) 初期の色鍋島にある地文・文様を研究する中で、草花や幾何学文様を立体的に見せるひとつの様式として墨はじきの技法をより発展させることに力を注ぎました。 目に見えないところにも神経と手間を惜しまない作風が鍋島の高い品格を創り上げる一因となっています。