エミール・ガレ Emile Galle (1846−1904)フランス

家具・陶器・ガラス器の御売業者シャルル・ガレの一人息子としてナンシーに生まれる。

14歳のころから、ナンシー近郊の森や小丘を植物採集して歩き、後に傑出した植物の専門家となります。植物に対して死ぬまで情熱を注ぐことになり、植物は彼の主要な題材となります。

1867年、父のガラス商会の芸術指導にあたりますが、それは装飾美術を一変させることになるすばらしい冒険の始まりでした。1893年、ナンシーに自分のクリスタルガラス製作所を設立。ここからガラスの傑作作品が生まれます。


ガレがアール・ヌーヴォーの工芸作家としての名声を決定的なものにしたのは、1889年のパリ万国博覧会に、300点のガラス器、200点の陶器、17点の家具を出品して絶賛を浴びたときでした。

1904年白血病で死去。同時にガラス工芸を中心に展開を見せたアールヌーヴォーも終わりを告げました。




シャクナゲ文スフレランプ 1918〜1931年頃


トンボ文ランプ 1900年頃
ガレ工房
第一工房期 (1874−1904)

オリジナル、工房物と呼ばれることが多いですが、ガレ本人がすべての工程を手掛けた作品は確認できていません。
1904年に没するまでのガレ自身の役割は、器形の決定と、絵柄を紙の上にデッサンすることでした。

第二工房期 (1904−1914)

ガレの死後、友人ヴィクトール・プルーヴェのマネジメントにより作品が制作されました。
ヴィクトール・プルーヴェは以前からガレのために下絵を描く仕事をしていたので、ガレの作風を比較的よく継承しているのが特徴といえます。また山水風景文様などを新たに導入して、明るい印象の作品を世に送り出しました。


第三工房期 (1918−1931)

やがてアールヌーヴォーの流行が終わり、アールデコ時代へ推移しましたが、依然としてガレ工房ではアールヌーヴォー様式の作品が作られていました。
有名な「スフレ技法」がこの時期に開発された技法で、マネジメントはガレの娘婿のペルトリーゼによって行われていました。


白鳥風景文花器 1900年頃


ガレは、植物をはじめ自然の産物をモチーフとして、それらを洗練された感性と、想像力でリリカルに表現しました。またジャポニズム要素のある叙情豊かな型と文様を用いて、過去のガラス製品の概念を覆し、美的表現の手段として製造を行いました。
ガレによって、ガラスはただの工芸品から美術の領域にまで引き上げられたと言えます。

1889年のパリ万博で、ガレは「ナンシーに生まれた日本人」と新聞紙上で絶賛されました。

当時、ガレの花瓶は1点400フラン前後の値段がつけられていましたが、これは中産階級の一家の1ヶ月の生活費に相当する金額であり、相当高価な商品でした。

ショールームはナンシーの他、パリ支店、ロンドン支店、フランクフルト支店が設置されていました。


サフラン文花瓶 1900年頃

 

     アイリス文花瓶 1900年頃


 

 

 

プラチナ箔の細片を挟み込んだ三色の被せガラスに、アイリスの花とカボションで昆虫を熔着しグラビュールで彫り込んだ花瓶。
細かい気泡を封入しガラス素地に暖かさを感じさせる表情がつけられている。
宝石を思わせるような作品。

 

 

湖水風景図花瓶 1918〜1931年頃

 アジサイ文花器 1904〜1914年頃